8. どんな人が教師になるんだろう・・・って、考えたことある?

仕事で成功する

教師になるのは、誰?

教師を志し、実際にその職に就くのは、誰だと思いますか?

それはおそらく、「学校文化に違和感を覚えず、そこそこうまくいった人」ではないでしょうか。

たとえば、私の場合です。学ぶこと、知識を身につけることが好きで、高校入学くらいまでは勉強につまづくことがなかった。先生の言うことはほぼ無条件で受け入れて、たまに褒められることもあった。「あの生徒は大丈夫」と思われていると思っていた。学校の決まりに違和感を覚えない。ちょっと脇道にはみ出ることはあっても、すぐに軌道修正して平たんな道を歩き続ける。いわゆる、「いい子」ですね。

しかし反面、これといって秀でた領域はなく、何かにのめりこんで没頭することもない。仮に何かに打ち込むことはあっても趣味どまり。少なくとも、私はそんな感じでした。

教師であるあなたや、周囲の同僚はどうでしたか? 仮に高校生や大学生の頃まではさまざまな領域で成果を出したり名を挙げた人たちであっても、最終的になった時点で、「丸く収まる」ことを選んだのではないでしょうか。

 

教師は「学校システムの適合者」

つまり、こういうことです。教師になるのは、「学校システムの適合者」です。なんだかんだ言っても、学校の文化が性に合っている。理由は明白で、「ずっとそれでうまくいってきた」からです。

私は今までに、「教師になりたい」という意欲を持った多くの生徒と出会ってきました。彼らにその理由を聞くと、「かつて教わった先生のようになりたいから」と話す生徒が多いことに気づきます。というか、ほとんどがそういった理由からでした。生徒にとって、身近な大人は家族と教師です。何といっても、1日の大半を彼らとともに過ごし、その価値観を内在化するわけですから、その影響力たるや、はかり知れません。生徒にとって、教師が理想の大人になり得た場合、教師を志望する生徒が生まれます。人が変わるのは、最終的には人によるものだと思います。よってこのように、学校文化に適合するいくつかのルートのうち、理想とする教師に巡り合うことはとても重要な動機と言えます。しかし、仮にこのような出会いがなかったとしても、学校という場がいろんな意味で自分にとって快適で、ある程度の自信をもたらしてくれる場であれば、「教師になってもいいかな」と考えるのは、とても自然であるといえるでしょう。結果として、そのような思いを味わった生徒が教師を志すことになるのです。

 

学校システムの解体

ところで現在、学校システムは解体の危機にあります。終身雇用制の崩壊、少子高齢化、AIの台頭により、現在の生徒は永遠のスキルアップを必須条件として「100年時代」を生きなければなりません。その時々で必要なものを得るために、頻繁にステージを変えていかなければならないのです。日本の学校は、国際的にも保守的な日本という国の中においては、「保守の保守」と言える存在です。これまで以上に多様性が求められる社会のニーズに対して、学校は応えられません。

それだけではありません。学校組織は今、さまざまな「外圧」にさらされています。入試システムの変更、それに伴うカリキュラムの改訂、多様な家庭環境との折り合いのつけ方が、それにあたります。加えて、従来から抱える問題は棚上げされたままです。

実際に現場に立つ人間として、学校教育はうまくいっていないと感じることが、特にここ数年は多くなりました。諸問題に対して場当たり的、表面的な対応が多く、次の火種を生んでしまうことを繰り返しています。長期的な問題について誰も考えていないため、こんなふうになってしまうわけですが、学校としてのビジョンの策定と日常業務の遂行は、パラレルに行わなくてはなりません。そして、それを行わなければ、教師は永遠に、不全感とストレスを感じながら仕事に従事することになります。

 

誰が生徒の育成を担うのか?

では、誰が若い世代の育成を担うことになるのでしょうか?

それは、「特定の領域に特化した専門家」です。「最大公約数領域を深掘りできる人」というのが正確かもしれません。つまり、「多くの人のニーズ(つまり社会的に価値が高いと認知された領域の必要性)に応えられる人」です。

一定の年齢までは、あらゆる学問的領域を広く浅く伝えるというのが従来の公教育でした。しかし、現在は「大きな価値観」が共有されない時代です。公教育が多様性に応えられるとすれば、社会的に価値が高い領域を限定し、それらを深く学ばせることが「公の利益」に適うことになるはずです。そして、それを嫌がる若者は、おそらく学校を離れることになるでしょう。しかし、学校を離れた若者が置き去りにされるような事態は起こりません。なぜなら、彼らのニーズを拾い続ける、何らかの教育装置は存在するし、その数は今後も増え続けていくに違いないからです。今までは、単なる趣味程度のものとしてしか認知されてこなかった、あるいは収入に結びつくとは到底考えられなかった領域を学びたいと思う若者がいて、その領域の知識が豊富なだけでなく、その面白さを存分に味わわせてくれる人たちがいる。「好きなことをやって生計を維持し、人生を謳歌する」ことが可能な時代が、ほぼ実現しているのです。

 

教師養成システムを捨てる

学校システムが瓦解すれば、従来のような教師を養成するシステムも、不要になります。教員養成を目的とした大学や学部は、その存在意義を大きく問われることになるでしょう。いわゆる教育学部では、自身の専門領域を追求するとは言っても、深化することはありません。生徒の心理やその指導法を学び、採用試験を受けて教師として教壇に立つことがゴールになっています。さらに在学中にはかなりの時間を教育実習に割いて、20歳そこそこの若者がすぐに現場に行っても気後れしないように、環境に慣れさせようとします。

そして教育学部に限らず、教員養成課程の目的は、教師を志す人間に「学校文化を吸収させること」にありますが、これが問題です。生徒に学びの楽しさを教えたいと願って教師になった人間でも、実際に仕事の中心になるのは、「生徒を学校教育に適合させること」になるという点がつきまといます。だから、学校に合わない生徒が出てくる。今までは社会通念が学校教育を支えてきましたが、これからはその「社会」が、至る所で学校とぶつかり始めます。

教師は、「教師」になるべくして育ててはいけない。教師こそが世の中の仕組みを知悉し、多様な価値観を示し、その価値観と生徒個人をコーディネートする。本質を追求し、柔軟性に富み、現実的な存在でなくてはならないのです。そうでなければ、従来の教師は淘汰される。これからの時代に最も必要な「教師」は、民間の専門家ということになります。教師よりも現実的で、専門的で、人間をはるかに深く知っている。自身の取り組みがいかに社会に貢献していて、やっていて楽しく、誇り高い仕事であるかを体現できる。教育課程を学んだかどうかは、ほとんど意味がないのです。

 

あなたの職は、奪われない。

では、公教育の担い手である私たちは、いったいどう振舞えばいいのでしょうか?

ある人たちにとって、これは愚問です。

「私たちは目の前にいる生徒をしっかりと見据えて、自分たちができる範囲のことをすればいい」、

「従来からある各科目を軽視する理由がない」、

「そもそも、好きなことだけやって食べていく時代なんてくるわけがない」、

いろんな反論が予想されます。

大丈夫。あなたの職が奪われることはありません。公務員は、よほどの理由がない限り、クビにはならない。今まで通りの仕事をしていても、誰も文句は言いません。それどころか、今まで通りであり続けることで、同僚はあなたのことを「安心できる存在」と見てくれるはずです。波風を立てないことが最も尊重される「学校」という場において、そんなあなたは立派な教師であるといえるでしょう。

 

しかし、このことは覚えておいてください。

現在の教育システムは、たかだかここ100年程度で醸成されたものに過ぎないということ。

そして、変化した者だけが生き残れるという事実です。

あなたの職は、奪われない。奪われるのは、あなたの存在意義と、生徒の未来です。

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