「個人が責任を取らせてもらえない組織」の末路

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皆さんこんばんは角松利己です!

 

今回は、「個人が責任を取らせてもらえない組織の末路」について話します。もちろん、その「組織」とは「学校」です(笑)。

 

 

教師はどこまで責任を取れる?

6月下旬現在、本県の高校は1学期末試験真っ只中です。新型コロナウィルスの影響で、採点期間が例年になく短いため、自宅に答案を持ち帰って採点しようと思っていましたが、現任校では許可されていませんでした。

 

答案の自宅採点については「答案紛失」などが全国の学校でたまに起こっていますよね。USBの紛失も、「生徒の個人情報漏洩問題」として、不定期的に紙面を賑わせています。

 

私は以前の勤務校で、答案を自宅に持ち帰ったことは何度もあります。そうしなければ、指定の期日までに採点が終わらないからです。18:30まで部活指導をやって19:00に学校が閉まる。持ち帰りをしなければ、採点が終わることはありません。

 

近年、「答案紛失」などの問題が顕在化してきたため、学校側は「持ち帰り」を許可しなくなりました。仮にOKの場合でも、事前の帳簿記入や管理職への報告が必要になります。

 

しかし、勤務時間中の過ごし方は昔に比べて忙しくなる一方です。私は現在、教材研究にはほとんど時間をかけていません。それは、教科指導のキャリアを積んだためもありますが、最大の理由はとにかく雑事が増えたためであると言っていいでしょう。

 

だから、こう思います。

「テストの答案持ち帰りを公に認めてほしい。もし答案の紛失があれば、当事者として責任を取る。」

 

もし答案が紛失したら、生徒に得点はつけられなくなります。もし答案が盗難にでもあったら(以前は「帰宅途中の教師の車の助手席から答案が盗まれた」などのニュースが散見されました)、生徒の得点が流出してしまいます。だから、仮に私が「当事者として責任を取る」と言ったところで「どんな責任が取れるんだ」と返されるのがオチでしょう。でも、私たち教師は期限内に採点を終わらせなければならないわけです。

 

そして何より、私が問題視しているのは、「社会人が自身の行為に対して責任を取る」ことが許容されないことは、「良い状況を作っていこう」「事態を打開しよう」という気持ちを奪いかねないという点です。

 

 

それ、個人の裁量を逸脱してますか?

今から5年ほど前でしょうか、アクティブラーニングに関する先進校の取り組み記事を、ある教育誌で目にしました。東北地方の私立高校だったと思います。私は当時、アクティブラーニング的な授業を志向していたため、その先進校の取り組みに大変興味を持ちました。

 

記事によれば、その先進校(仮にA高校とします)では、授業を動画撮影し、それをDVDに収録して毎年校内の職員で閲覧し、授業改善に役立てているというものでした。記事の末尾に学校の代表として紹介にあたった教務主任の方の名前が記載されていたため、私はすぐにその方にメールを送りました。「自身の、ひいては本校の授業改善のために御校のDVDを貸していただきたい」と。もちろん、私の身分や所属校の連絡先も併記してです。

 

数日後、私は学校長から呼び出されました。一言でいうと、「こういうケースは管理職同士のやりとりが必要だから」というものでした。A高校の教頭から勤務校の校長に連絡があったようです。

 

私は引っかかるものを感じました。

・全国的な教育誌で先進校の紹介が掲載されていた。

・問い合わせ先と担当者が示されていた。

・授業改善の目的で、学校関係者が身分と所属を名乗り、連絡を入れた。

それがクレームにつながった。

 

私は学校長からの説明を聞いても、納得がいきませんでした。ただ、目的はA高校の取り組みを知ることだったため、その場で改めて学校長に、「では、管理職経由でDVDをお借り願えないか」と聞いてみたんです。しかし、答えはNoでした。

 

理由は「そのDVDにはA高校の生徒が授業を受ける様子が映っていて、個人の特定に繋がりかねないから」というものでした。

 

私は理解に苦しみました。

・A高校の実践は、問い合わせがあることを前提としたものだったこと。

・学校間でDVDのやり取りを行えば、一般的には「個人情報の漏洩」につながるような事態になることは想定できないこと。

 

反論する私に対して、学校長の端切れは悪く、私は席を立ちました。

 

 

日本では、一教師は「社会人」と見なされない。

つまり、こういうことなのでしょう。

 

「あなたは、一教員に過ぎない。だから、外部とやり取りするときは、管理職を通さなければならない。その手続を怠ったあなたは、学校組織のやり方を守れない人間だ。よって、今回の申し出は受け入れられない。」

 

私はそのように理解しました。

 

「日本では、一教師は社会人と見なされない」。

 

いえ、教師に限らず、どんな会社においても組織で働く人間は、「社会人」とは見なされないのだと思います。私にとっての「社会人」とは、「自分で責任が取れる範囲を理解し、その範囲でチャレンジする人間」です。しかし、上記のような試みが「一社員が責任を取れる範囲外のこと」と見なされた時点で、「そうか。社会人とは、ほとんど自己決定権が与えられていない人種なんだ」と思ったわけです。

 

 

「個人が責任を取らせてもらえない組織」の末路。

ですが、このレベルで「個人的な交渉」ができない現状は、悲惨だと思います。

 

「学校は、この社会において、常に最先端をゆく場所」というのが、私の考え方です。きわめて現実離れしていますよね(笑)。でも、学校が「次世代を担う若者に同伴する場」であるならば、この考え方を捨てるわけにはいきません。停滞を何よりも恐れ、朝令暮改をいとわず、「よい」と感じたことはすぐに実践し、結果としてそのやり方を定着させるか捨てるかを判断する。「生徒の成長につながるかどうか」が何よりも尊重される。それが「学校」です。

 

しかし現実には、トップの決定が個人の思惑を良い意味で超えるような事態に、私は未だ遭遇したことがありません。それどころか、トップの決定は常に社会の最後尾を拝しながら下されることがほとんどです。

 

加えて、個人のアイディアを許容することもできません。誰も責任を取りたがらない上に、個人が責任を取ろうとすることも許さない。これが、学校の現状と言えるでしょう。

 

ですが、もし、すべての教師がリスクを考慮しながらもチャレンジをし続けたとすれば、学校はどう変わるでしょうか? 収拾がつかなくなると思いますか?

 

私はそうは思っていません。むしろ教師たちの活気に溢れた声が学校中を行き交い、毎日が刺激に満ちた空間になるはずです。

 

「個人が責任を取らせてもらえない組織」の末路は、諦観と閉塞感に包まれた未来です。これは学校だけでなく、日本社会全体に言えることなのかもしれません。ですが、この旧来的な価値観を打破できるのは若い世代であり、私たち教師は彼らに最も近い位置にいることを忘れてはならないと思います。

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