13. 教師は「学ぶ意義」を説明できない

仕事で成功する

あなたは普段、生徒に「勉強しないとダメだよ」と言っていますか?

 

私は高校生に対してこう言っています。

「勉強したくなければしなくてもいい。でも、いいことが一つもないよ。」

 

教師は「学ぶ意義」を説明できない

 私たち教師が「勉強しなさい」と言うのは、「学ぶことに意義がある」と思っているからです。たとえば、

 

・社会に出て困らないため。

・親になった時、自分の子どもを方向づけるため。

・豊かな人生を送ってほしいため。

・「100年人生」と「雇用環境の流動化」の下で生き抜くため。

・学ぶ行為そのものに楽しさがあるため。

 

いろんな視点から、「学ぶ意義」を説明することが可能です。

 

ただ、当の生徒たちは、あまり「学ぶ意義」について切実に考えている様子はありません。現在の日本は、物質的には飽和状態にあります。人生に何も望まなければ、100均ショップとスーパーとわずかなお金で生きていけます。「それはつまらないよ」と大人が言っても、ほとんどの高校生年代は人生の意義を見出せていないのですから、どこ吹く風です。私たち大人は、

 

・過去の経験則を引き合いに出しても、

・未来社会の現実を突きつけても、

 

生徒に「学ぶ意義」をわかってもらうことは非常に難しいと言えます。

 

「勉強しなさい」は教師の自己正当化

にもかかわらず、私たち教師は毎日、口を酸っぱくして言っています。「勉強しなさい」と。

 

教師が生徒に対して言う「勉強しなさい」には、無意識的にこんな意味が与えられています。それは、

 

「教師の自己正当化」です。

 

教師は、自身の専門科目を生徒に教えることでサラリーを得ています。その意味で、教師にとっての生徒は「顧客」と言えますが、この「顧客」には「商品」を選ぶ自由が与えられていません。目の前に陳列された「商品」を、店主が「これは君に必要だ」と言いながら生徒の両手いっぱいに持たせ、「お代はいいよ。でも、そいつを使った感想を後で聞かせてくれ。感想を聞かせてくれないなら君の人生には責任が持てないよ」と声をかけ、背中を押します。「顧客」の方は、その「商品」が欲しいわけではないから、使う気も起きない。でも、使わないと自分の人生がダメになると言われているから、触ったり、擦ったり、噛んだりしてみる。そこで面白みがわかればOKということになりますが、そうならないことが非常に多い。

 

「店主」は楽なものです。常に「顧客」は存在しています。常に「顧客」は「商品」を買ってくれます。「商品」が使えないのは、「顧客」のせいです。

 

無条件で商品が売れる。商品の質は問われない。アフターフォローは通常、3年間。とは言え、「使えない奴が悪い」という風潮は、昔のままです。

 

さらに、「勉強しなさい」という言葉かけには、こんな効用もあります。

 

この言葉は、「教師の自己肯定感」を高める働きを持っています。この言葉を教師が口にするたびに、勉強を教える、あるいはその必要性を説く自身の存在意義が高まります。「勉強すること」は絶対善であり、私は絶対善を行使する存在である。「勉強しなさい」は教師の自己肯定感を日々補強し続ける、最強の呪文です。

 

学校の価値観を相対化する

ここで考えなければならないことは、「私たち自身が、学ぶ意義を再定義すること」です。

そのためには、

 

教師自身が、学ぶ意義を相対化すること

 

が、不可欠になります。

 

現在、「従来の学校像」は解体されつつあります。多様化する社会の価値観や保護者のニーズ、知識単体の陳腐化、少子高齢化社会において人間だけが存在意義を発揮できる領域の見極め。学校は、自身の存在意義を本気で見直す時期にあります。

 

私自身は、現時点における学校の存在意義を「多様性が共存する場」、「生徒が友人同士と価値交換を行う場」であると捉えています。ただし今の学校は、「多様性が共存する場」としての役割を果たしていません。「一斉に均一化を図る」といった学校の方向性は、むしろ逆行しています。生徒間のいじめのような問題も、「一斉に均一化を図る」弊害と考えられます。真偽はともあれ、「全体との相違点にクローズアップする」ことが「いじめ」の発端ですから、従来の学校文化がいじめの温床になるのは当然と言えます。

 

多様なコミュニティが生徒の居場所になる

そして、現在の学校は、生徒が社会性を育てる場としての役割を果たすうえでは非常に重要な位置を占めています。私個人としては、学校に適応できない生徒がいたとしても、学校外に限りなく存在するコミュニティがその生徒を受け入れ、育てることに何ら疑問を抱いていません。誰であろうと、よりどころとなるコミュニティで暮らす必要があります。今は「学校に行く」ことが当たり前かもしれませんが、「ここは違う」と思ったら、所属集団を自由に変えるべきです。また、それを当然とする社会風土の醸成を求めてもいます。「友達に会えるから」という理由で、多くの生徒は登校します。それで構いません。私たち教師は、彼らが多くの価値を交換する場に立ち会い、自らもその輪の中に入ればいいのです。

 

思い入れをもって、突き放せ

教師が授業を相対化することは、自身の価値や学校の持つ価値観そのものを相対化する試みです。私は自分の授業を楽しく、価値あるものとして認識していますし、そうするための努力もわずかながらしています。ただ、「俺の授業って面白いよな」と思いながらも、その一方で「しょせんこの程度だな」と突き放して見ています。準備は入念に行いますが、生徒の反応が期待通りでなくても、ちょっと残念に思う程度です。「プロセスはコントロールできても、結果をコントロールすることはできない」。「7つの習慣」に書いてある通りですね(笑)。

 

トイレを我慢しながら授業は受けられない!

自身の価値や学校の価値観が相対化できれば、もはや些事にはこだわることがありません。やる気を見せない生徒に対して、細かく言うこともありません。「私に評価されることに意味はない」と、生徒にはよく言います。私は生徒が遅刻して入室しても、理由を聞ければそれ以上のことは問いません。授業中に寝ていても、放っておきます。「授業道具を準備し忘れたから廊下のロッカーに取りに行きたい」「トイレに行きたい」と言われれば、「どうぞ」の一言で終わりです。大切なことは、学校が「多様性が共存する場」であり、「生徒が友人同士と価値交換を行う場」であること、時折、その「場」に混ぜてほしいこと、これらを認めることです。これはどんな学校であろうと、変わりがないと思います。

ですから、私の授業は厳しい。内容を理解するためのプロセスを重視するため、「君が寝ていたら、君と意見交換する隣の彼の信用を失うことになるけど、それでもいい?」と、何度も言います。テーマから脱線しても同じ。ただし、思考を深める前提条件として、「安心できる場」を提供することは必要なので、トイレなどの「個人的な問題」は認めているのです。トイレを我慢しながら思考を深めることは、不可能です(笑)。

 

捨てれば、手に入る

教師が「学ぶ意義」を説明するのはとても難しい時代です。ならば、無理に説明しようとするのはやめましょう。ただ言えることは、「教師自身が学びの意義を相対化することで、見えてくるものがある」ということです。それは「教師自身の持つ価値観の相対化」であり、「学校文化の相対化」です。自身が絶対視していた考え方から離れることで、得られるものは多い。学校が多様性の共存を推進する場であり、生徒相互の価値交換をサポートする場であれば、従来の多くの課題が、おそらく氷解するはずです。

 

 

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