刺激と安堵

成功する

「教師の自信喪失」は、職業病。

皆さんこんばんは角松利己です!

 

教師専門のキャリアコーチをしている藤井秀一(ふじいひでかず)さんという方がいます。今日はその人のメルマガをヒントに記事を書いてみました。

 

まず、藤井さんのメルマガをまとめながら部分引用します。

 

若手教師が「私、何もできないんです・・・。」といった悩みを寄せています。

しかし、「なにかができる=能力」は、「他者より優れた得意技」のことではありません。

「何もできない」と自信喪失に陥るのは、『評価』を職として扱う世界の中で生きている教師だからこその誤解です。

あなたの中にある「他者のお役に立てる何か」は、すべてが『能力』です。
それこそが今、世の中で最も求められ、活用されるべき要素なのです。

 

 

藤井さん曰く、教師が自信を失うのは、仕事の中心に「評価」を据えるから。「評価」の対象は「能力」であるため、「私には能力がない」と思った瞬間に、私に対して「評価」が下されることになります。その結果、教師は「自信喪失」に陥るわけですね。

 

確かに、「仕事の中心が評価すること」にあるならば、教師は同僚とも生徒とも、いい関係を築くことは永久にできません。なぜなら、常に「能力の有無」が対人関係について回るからです。

 

同僚に対して「あの人は仕事ができない」と評価し、

生徒に対して「あの子はあれもこれもできない」と評価し、

不定期的に「私はこんなこともできない」と自分を評価する(責める)。

 

これが、「評価」を生業とする職業の宿命です。前述した「若手教師」に限らず、「能力を中心にした自他評価の付随性」は、教師の職業病と言えるでしょう。

 

 

ところで、「評価すること」がそのまま仕事になるような職業には、他にどんなものがあるでしょうか?

 

たとえば、裁判官。彼らは、「裁くこと」が仕事です(必ずしもそうではありませんが、論旨をわかりやすくするためにそう扱います)。警察官は、取り締まることが仕事。そして、教師も同じですよね。

 

しかし一方で、社会の多くの仕事は、「評価」しません。むしろ「評価してもらう」側に立っています。企業の使命は「価値提供」です。そのため、顧客の役に立つ価値を創造し、その価値を提供することで対価を得る、というのが基本的な理念にあります。企業の価値や存在意義を評価するのは常に顧客ですから、企業側は顧客からの信頼を得ようと懸命になります。

 

 

教師は「評価」を捨てなければならない

その意味で、やはり「学校」は特殊な組織です。「評価する態度」は、誰も幸せにしません。

 

もちろん、生徒に対する「成績評価」は必要ですし、「問題行動に対する懲戒」も最低限必要でしょう。ただし、教師はその日常業務を「評価的姿勢」に絡め取られてはならないと思います。周囲に向けられる教師自身の「評価的視線」が、学校環境を抑圧的なものにする弊害は非常に大きいと言わざるを得ません。そして、そのような視線が過度に自身に対して向けられれば、もはや胸を張って仕事をすることはできなくなってしまいます。

 

 

主体性は譲れない

では、「評価的姿勢を排除すること」は、「すべてを受け入れること」と同義なのでしょうか? さらに、それは可能でしょうか?

 

結論を言えば、すべてを受け入れることは不可能です。そして、両者は同義ではありません。私たちは、すべてを受容してはいられません。受け止めるばかりでは仕事は進みませんし、主導権を周囲の人間関係や環境に握られてしまいます。可能な限り、人生そのものの主体性を自分の手に残しておきたいと願う私(おそらく、多くの人が同様に思うはずですが)からすれば、意思決定を自分自身で下せないことは、生きていくうえで大きな苦痛です。

 

 

同僚に求めるものは「刺激と安堵」

ここで、「私が学校という場や同僚、そして自分自身に対して求めているもの」とは、いったい何だろう?という疑問にぶつかりました。「評価的視点」から抜け出し、「自身の主体性」を可能な限り維持しながら、いい仕事をしていく。これを実現するためには、どんな要素が必要だろう?という疑問です。

 

その答えが、「刺激」と「安堵」でした。

 

「刺激」とは「成長の種」です見聞を広めるための材料であり、明日に向かう動機となるものです。

 

「安堵」とは「癒し」です。「安心」であり、「気分転換」であり、明日に向かう活力となるものです。

 

私たちには、「動機」と「活力」の双方が必要なのです。

 

私の残り時間は多くはありません。そのため、現在の私にとって「刺激と安堵、そのどちらももたらさない関係性」は不要です。自他の成長にもつながらず、業務に笑顔をもたらさない関係は、「何か」を生み出すことはありません。

 

 

多くの人の間違い

過去27年にわたる教員経験から言えることですが、私たちは「関心の輪」に手を広げすぎていると感じます。「関心の輪」とは、「自身に裁量のないこと」、「聞きかじっただけの知識の披露」、「興味本位の世間話」を指す表現です。ひとことで言えば、「どうでもいいこと」ですね。とはいえ、職場ではこの手のやり取りは非常に多く見られます。

 

たとえて言えば、教務室は「バレーコート」さながらです。上記の話題に見境なく入ってこようとする人は少なくありません。誰かが何か言うと、ほぼ例外なく近くにいる誰かがそのつぶやきを拾います。そのつぶやきは独り言の時もあるだろうし、ちょっとしたヘルプを依頼する意思表示の場合もあるでしょう。しかし、「床にボールを落としてはいけない」という、不思議な雰囲気が常に漂っているんです。

 

バレーコートにボールが打ち込まれるたびに、数人が一度に手を伸ばす。人が集まる場所に介入しようとする態度は民族性の典型的な反応なんでしょうが、その話に加わることで得られるものは、「ボールを拾ってくれてありがとう」「私の時も拾ってね」という、目に見えない気持ちのやり取りであり、「柔らかな依存性の醸成」でしょう。仕事に「生産性」と「誠実さ」を求める私は、うまくなじめずに、曖昧な表情をするだけです。ただし、仕事は進めますけど。

 

一方で、個々のやりとりがうまくいっているかと言えば、そうでもありません。用事があってその人のもとに出向いて声をかける。相手はPCで文書を作っているせいか、視線はずっとPCに向けられていて、声をかけた人を見ない。声だけでやり取りを済ませ、お互い何もなかったかのように離れていく。

 

でも、用事があって出向いた人は、内心、相手の対応を快くは思っていないでしょう。

こういった対応の仕方は同僚に対しても、生徒に対しても、出入り業者の方に対しても、日常的に目にすることです。そのたびに、相手に対する信頼関係が損なわれていることに気づいてはいないようです。

 

 

正しい振る舞いは、こうだ。

私ができることは、「影響の輪」に対してのみ働きかけることです。「自身に裁量のないこと」、「聞きかじっただけの知識の披露」、「興味本位の世間話」には、基本的に関わる必要はありません。仮に私の50cm隣で数人が社会問題について話していたとしても、上記内容に該当すれば、話の輪に加わることはないでしょう。逆に、「話す価値がある」と思ったことについては、5m離れていても遠慮なく加わると思います。

 

これは、「ビジネス思考」です。定時に帰宅したいから、仕事に集中する。世間話に加わっても、誰にも何ももたらすことはないのです。定時を過ぎても帰ることなく、せいぜい「楽しく話せたなぁ」という思いとともに、やり残した仕事に取り組むしかありません。

 

そして、誠実に振る舞うことも基本です。誰かに声をかけられたのなら仕事の手を休め、その相手の方を向き、最後まで話を聞く。聞き終えて初めて、自分の考えを伝える。これは対人関係の原則なので、普遍性が非常に高く、もたらす効果も想像以上のものがあります。

 

「関心の輪」に手を広げようとしないことです。「影響の輪」の中で、自身ができることに徹底的にコミットすることで、仕事も進むし、自信もついてくる。そんな自分のことを好ましく思えるからです。

 

原則やビジネス思考に基づいた振る舞いを蓄積すれば、信頼関係が育成され、仕事も進みます。相手の信頼を勝ち得、自己に対する信頼も深まり、定時に帰ることであなた自身の時間も生まれます。あなたが生み出した時間は、あなた自身をさらに魅力的な人間にするために、徹底して使うことです。知識を身につけ、チャレンジをし、その知識や経験を職場でシェアし、新たな価値を生み出す。さらに生徒に還元する。「何か新しい領域」を知っている人に、人も情報も集まるものです。そして、チャレンジしている人の存在は、周囲の環境に活気と変化をもたらします。互いに癒し癒され、同時に刺激を与えあうことができる環境ならば、多くの人にとって居心地がよく、生産性の高い場に感じられるのではないでしょうか。

 

そして、あなたが職場で一貫してこのような振る舞いをすることは、「あの人はこういう人だ」という見られ方を確立することにもつながります。それは、あなたにとって好ましいことではないでしょうか?

 

このように、「私が学校という場や同僚、そして自分自身に対して求めているもの」は、「刺激と安堵」であることが再確認できました。そして、この2つの要素はあなたにとってもおそらく一定の価値が感じられるものであると思います。私たち一人一人が「誰かにとっての刺激と安堵」たり得る存在であるはずです。最初のうちは、少なくともどちらか一方の役割を担えれば、それで構わないと思います。それだけでも、あなたは職場で重要な価値を占めるようになるでしょう。

 

 

毒か薬に。

ただ、いずれはどちらか一方ではなく、刺激と安堵、両方の役割を担えるようになったら素晴らしいと思います。それを追求する価値はあります。両方を併せ持つ人は「毒にも薬にもなる人」です。場に応じて、相手に応じて柔軟に向き合い方を変えながら、小さな変化を巻き起こすことができると思うからです。

 

そういった人とは逆に、いわゆる「毒にも薬にもならない人たち」がいます。自分の考えを持たず周囲に迎合し、「楽しい」雰囲気づくりには欠かせない人たちです(笑)。

 

残念ながら、学校という世界には「毒にも薬にもならない人」が非常に多くいます。対人関係に配慮するあまり、結論の出ないことを延々と話すことで、表面的な「平和」を取り繕っているわけです。しかし、こんなことを続けていれば、閉鎖的で生産性の低い「学校」という組織は、遠くない将来には淘汰されるでしょう。

 

 

「刺激と安堵」をもたらす人は、大きな収穫を手に入れる。

まとめると、以下のような流れになります。

 

教師は「評価」を捨てよう。

すべての人にとっての本来の仕事は「価値を提供すること」

しかし、すべてを受容する必要はない。

「刺激」と「安堵」を提供できる人になろう。

人として求められるのは誠実さ。仕事上求められるのはビジネス思考。ここが守られるならば、あなたはどんなふうに振る舞っても構わない。

そこから生まれるのは、「あなたに対する信用」と「莫大な時間」。

結果的に自信が生まれ、自己研鑽に取り組みやすくなる。

 

教師という仕事を成功させ、セカンドキャリア構築に向けて歩み始めることも可能になる試みです。

 

さて、あなたはどうしますか?

 

 

 

 

 

 

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