誰も管理職を目指そうとしない。じゃあ、もしそれが続いたら学校はどうなる?

仕事で成功する

皆さんこんばんは角松利己です。

 

ハンドルネームの由来は、こちら。

「利己は、利他。」

利己は、利他
角松利己 これは、本名ではありません。 あなたは、「角松敏生」を知っていますか?  私が20歳で彼の音楽に初めて出会って、ちょうど〇十年経ちました。 とても長い間、彼の音楽を聴き続けてきたわけですが、...

 

今回の記事は、12,000字オーバーの長文になります。

お時間のある時に、どうぞ。

 

 

「管理職になりたい」と思える2つの条件

突然ですが、皆さんは管理職になろうと思いますか?

 

おそらく私を含めて、「いずれは管理職試験を受けて、学校の方向づけに携わってみたい」と考えている人は、皆無に等しいのではないでしょうか。それほど、現在の学校における「管理職」という仕事には魅力が感じられません。

 

*ちなみに、私自身は40歳の時に管理職試験(「教頭・指導主事試験」)を1度受けています。これについては、こちらの記事をご覧ください。

 

「管理職試験を実際に受けてみてわかったこと。」

https://eleadstoe.com/advancement/

 

 

たとえば、「教師が管理職を目指す理由って何だろう?」という趣旨でインタビューおよび記述調査とその分析を行い、以下のように結論づけた論文があります。

 

マネジメント経験から得た「職務達成感」と、「専門的識見・改革型リーダー機能」を有するロールモデルとの出会いが、「組織貢献効力感」「校長職に対する肯定的認知」の2変数を介して、学校管理職志向に間接的に影響を与えることが明らかになった。

「教員の管理職志向への規定要因―ロールモデルとマネジメント経験に焦点を当てて―」

川崎知巳・飯田順子 教育心理学研究,2018,66,67-80

 

まず、自身のマネジメント経験が挙げられていますよね。これは主に「主任」経験を指すんでしょうか? 教科主任や分掌主任、あるいは自身が携わってきた部活動指導などを指すと思われます。いずれかの領域に足を踏み入れ、「やり切った」と言えることが大切なんでしょうね。簡単に言うと、「人をまとめた充実感を得たことのある人」ということでしょうか。そして、もう一つは、これも簡単に言うと「立派な先輩の存在」ですね。

 

こういった経験や出会いがあったことで、「私は学校をまとめられる」「あのようなリーダーになりたい」という気持ちを経て、「よし、管理職を目指そう!」という思いにつながるということです。

 

 

なるほど、大変納得のいく話ですね。

 

 

管理職に実際になる以前に、「模範とすべき管理職の存在」があり、「マネジメントの成功体験」があれば、管理職になりたいと思うのは、当然でしょう。

 

だとすれば、現在、管理職のなり手が少ない原因は、「魅力的な管理職が少ない」ことや、「小さく限定的な組織内でのマネジメント成功体験を持たない、もしくは未経験である」ことが理由になると思われます

 

確かに私自身、魅力を感じた管理職は一握りだったように思います。また、自身の経験を振り返っても、「小さく限定的な組織でのマネジメント体験」は、担任を務めた時くらいです。成功もありましたが、ごくわずか。失敗した時の方がずっと多くありました。

 

でも、こうやって考えてみると、普通の教師が「管理職になりたい」と思えるような機会は、極めて少ないように思います。そのような機会が与えられることも、担任や部活動顧問の経験を除けば多くはありません。さらに、その機会を必ず成功につなげられるかどうかは今の時代、難しいと言えるでしょう。

 

では、もし管理職のなり手がいなかったら、学校はどうなるんでしょうか?

 

というわけで、この記事では、管理職の存在意義について考えてみました。

 

 

 

近くで見てきた「管理職の仕事」

ここでは「管理職」を、「学校長」と「教頭」に限定して話を進めます。

 

私が見てきた「学校長」の仕事とは、大きく次の3点です。

 

  • 最終責任を負う

  • 会合への参加

  • 折に触れて人前で話す

 

これは「仕事」と言えるかどうかわかりませんが、学校長の最大の責務は、「最終責任を負うこと」です。

 

学校では日々、「学校長名」で多くの決裁が行われています。また、多くの文書も学校長名で発行されています。「衣替えのお知らせ」といった軽微なものから「調査書や推薦状の発行」といったそれなりに重い位置づけにあるものに至るまで、多種多様な学校活動が「学校長名」で行われます。

 

さらに、生徒にかかわることであろうと教師にかかわることであろうと、問題が生じれば迅速な対応を迫られます。事実確認をし、適切な対応をし、判断する。ひとたび何かあれば、すべて学校長が責任を取るわけです。

 

 

学校長の仕事には「会議への参加」も少なからず位置を占めています。

学校長は教頭と同様に、学校組織内で行われていることを知悉する義務があります。そのため、すべての「会議」と名のつくものに名を連ねることになります。

教師自身も、役職によってはかなりの数の会議に出席せざるを得ませんが、管理職はそのすべてを網羅します。

 

加えて、学校外での会合への参加といった仕事があります。

学校が置かれている地域の各団体や学校関係役員、さらには教育庁や教育委員会などが催す会議への出席と、多岐にわたります。多くの学校長は所属する都道府県の教育研究組織や部活動団体の主要職にも名を連ねます。つまり「名誉職」と言われるものですが、こういった「名義貸し」は自身の興味関心や専門性にまったく関係なく指定されるため、「大会があるから」「発表会があるから」といった名目で学校を空けることが少なくありません。外部に顔を出すのに忙しい学校長は、下手をすると1年の3分の1程度、学校を空けているのかもしれません。ある意味、本末転倒ですが、そういった校長不在を教頭が補うことになるわけです。

 

 

学校長の仕事には、「折に触れて人前で話す」ことがあります。

各種行事の際はもちろん、先に挙げた「大会」「研究会」等におけるスピーチ、果ては問題行動をした生徒に対する説諭なども含まれます。こちらも、大きな労力を必要とします。聴衆は「学校長としてのひとこと」を期待して聞くわけですから、底の浅いことはなかなか言えません。一度使った話も、二度目は使えません。「常に一定レベルの話を、違う話題で、年に何回も」話すことが、学校長には求められています。

 

 

 

では次に、もう1人の管理職である教頭の仕事を見ていきます。

 

 

教頭の仕事は、次の3点が主でしょう。

 

  • 学校の窓口

  • マネジメント

  • 通過儀礼

 

まず、教頭の立ち位置としては、その学校の「窓口」としての役割が挙げられます。

一般の職員も、担任や部顧問、分掌の仕事として外部と折衝するのはもちろんです。しかし、自身だけで判断できない問題に直面した際や、トラブルに発展しそうな場合は、まず間違いなくその案件は教頭に上げられます。

 

保護者からの相談や地域からのリクエスト、場合によってはメディア対応まで含めて、窓口としての教頭が果たす役割は大きいものです。

 

 

次に挙げられるのが、「マネジメント」です。

教頭は、常にパソコンに向き合っているか、常に職員と話しているか、その両方か、です(笑)。

膨大な事務仕事に追われているわけですが、その多くは調査統計資料の作成です。教育庁や都道府県教委に報告するためのものでしょう。

 

しかし、それと同じくらい大きな教頭の役割があります。それは、「職員の仕事の管理」と「職員間の調整」です。

 

「〇〇先生、あの書類、ハンコなかったよ。」

「□□先生、先月の出勤簿、早く提出してもらえる?」

 

・・・だいたい「締め切りオーバー書類の督促」か、「書類不備」の指摘なんですが、職員数が多かったりすると大変です。教師一人一人の仕事の進捗状況に目を配り、尻を叩く。これが「職員の仕事の管理」です。

 

これとは別に、「職員間の調整」も大切な仕事です。

職員間の連絡不徹底や相互の認識のズレ、あるいは不和などがある場合、学校は円滑に回りません。そして、こういった調整を教頭がやります。

 

・・・大変じゃないですか?

 

私見ですが、教頭が一職員に対して「督促」も「不備の指摘」も「調整」も、すべてする必要はないと思っています。

 

教頭がそういった仕事をせざるを得ないのは、「穴だらけの書類やプランをそのまま外に出せない」という認識があるからです。世間的には、確かにそうでしょう。

 

ただ、私は「仕事にミスはつきもの」と思っているので(つまり、生きている限り誰かしらに迷惑は絶対にかけるものだと思っているので)、ミスはミス、不備は不備のままで仕事を続ければいいと思います。

 

特に、学校内部で完結する仕事に関しては、問題が発覚した時点で当事者同士で話し合えば済むことでしょう。子どもじゃないんですから、いちいち教頭が「仲を取り持つ」必要はないんです。軋轢が表面化したら「その状態は困るので、当事者同士で最善の案を見つけてください。助けが必要なら、いつでも声をかけてください。」とひとこと言えば、何とかなります。何でも穏便に済ませるために介入するからよくない。教師自身も成長しません。学校内部で完結する問題に関しては、当事者同士で解決させるべきですね

 

 

教頭の大きな仕事である「窓口業務」と「マネジメント」業務を見てきましたが、最後に一つ。教頭職は、「通過儀礼」としての側面を持っていることにも触れたいと思います。

 

言うまでもないことですが、教頭になる人は、ゆくゆくは学校長になることを目指します。学校長になるには、通常、教頭職を経る必要があります。つまり、教頭職は学校長になるための「通過儀礼」です。

 

個人的には、「学校長になるために必ずしも教頭職を経験する必要はない」と思います。たとえば、民間でならした人物が学校長に抜擢されるようなケースは、よくあります。もちろん、教頭職の経験などありません。

 

プロサッカーの世界では、主審(レフェリー)と副審(アシスタントレフェリー)は業務が完全に分離しています。

昔は、主審を目指す人であってもまずは副審として経験を積み、最終的に主審になるという形でした。

しかし現在は、主審を目指す人は最初から主審の業務(スキルや視点)を学び、副審を目指す人も最初から副審の業務を学んでいます。

つまり、主審は主審の、副審は副審のスペシャリティを追求するわけです。試合では、それぞれのスペシャリストが自身の担当領域において最大限の能力を発揮することで、総合的に試合をコントロールするわけです

 

サッカーと同様に、学校長になるためには、必ずしも教頭職を経験する必要はないのかもしれません。教頭の業務はマネジメント中心になることが避けられないため、「調整することが好き」で「メンタルがタフ」な人に向いていると思います。そして、学校長への昇格を目指すことなく、退職するその日まで、「教頭のプロ」を極めていけばいいと思います。その仕事が楽しく、やりがいを感じるならば。

 

ただしその場合、学校長と教頭は業務内容によって単に分業しているに過ぎないわけなので、上下関係を作るべきではありません。「各自が各自の役割を果たす」ということに過ぎないわけです。

 

そして、給与体系にも格差をつけるべきではないと考えます。場合によっては、学校長よりも教頭の方が高い給与を手にしていてもいいでしょう。教頭職が学校長にたどり着くまでの通過儀礼ではなくなり、学校長とフラットな関係で意見交換がなされるとき、学校は今よりもずっと活性化するはずです

 

 

管理職という不本意

 

さて、ここまで「管理職の仕事」を見てきました。

ここからは、「管理職という仕事の大変さ」に焦点を当てたいと思います。

 

1.24時間勤務

管理職は、基本的には「24時間スタンバイ」が求められる仕事です。

休日だろうが真夜中だろうが、ひとたび何かが起これば、すぐに学校に来て対応を迫られます。

ただ、さすがにそういったことはめったにないわけですが、じゃあ普段の管理職はどうかというと、「12時間スタンバイ」くらいは平気でこなしています。

 

私が今までに経験した高校では、学校が朝6時くらいに開くと、それと同時かその直後に教頭がやって来ます。勤務開始はおおよそどの学校も8:30前後くらいですが、その時間に対して、教頭は遅くとも7:00には席についていることが一般的でした。

 

帰宅は、トラブルがなければ19:00です。高校では19:00になると、警備保障会社の防犯システムが作動します。例外的に遅くまで残る必要のある時は、事前に警備会社に連絡を入れればOKですが、何もなければ19:00に学校は閉まります。

 

教頭は、ほぼ例外なく、学校が閉まるその時間まで教務室まで残っています。それが毎日なんですよね。

 

仕事が忙しいのもわかります。仕事は切れることがありません。

 

でもおそらく、教頭が学校に最後まで、それも毎日残るのは、確実に「通過儀礼」のためでしょう。

 

教頭は、実務上は実質的な責任者であり、学校全体を知悉しています。その結果として、学校が閉まるまで、学校を「見守り続ける」ことが求められます。

 

学校という場は「努力」とか「頑張り」がさしたる意図もなく、むやみに求められるところなので、無駄な仕事や結果の出ない頑張り、形式的な努力の姿勢が多々見られる傾向があります。

加えて「責任者」の肩書です。教頭職は、その責任に見合った「努力」が求められる立場ということになるのでしょう。

 

仮にですが、私が教頭なら、そのような「暗黙の要求」に応えることはありません。可能な限り早く学校を出るために、効果的な方法を探すと思います

 

 

2.勤務地を選べない

 

管理職は、勤務地を選べません。だからこその「管理職」なのです。家を建てていようが、面倒を見る必要のある家族がいようが、生活根拠地からどれだけ離れていようが、関係ありません。辞令1枚で、どこへでも飛んでいきます。

 

私は6年前に家を建てましたが、今、「無条件で管理職に任命するから単身赴任をしてください」と言われたら、はっきりと拒否します。それくらい、管理職には魅力が感じられません。

 

 

3.意見を言えない

 

管理職は、自分の意見を言えません。教頭なら学校長に対して。学校長なら、自身の任命権を持つ都道府県教委に対して。学校長も教頭職も、「永遠の中間管理職」です。自身の任命権者と一般教員との間に立って、上意下達を穏やかに展開することが彼らの仕事です

 

私は、管理職と言われる人たちが「斬新なアイディア」を出したのを見たことがありません。いわゆる「奇抜」ということでなく、長期的視点に基づいた、本質的な、教師もしくは生徒のためになるプランの提案は皆無です。

 

しかし、その逆のケースには何度も遭遇しました。

自身の経験だけに基づいた、表面的な、人間関係に過度に配慮した、管理職自身が労を引き受けることのない、短絡的な、論理的な説明ができないプランです。

 

上の言うことを聞いてきた結果、現在の立場に就いているのが管理職であるわけですから、それも仕方のないことなのかもしれません。

 

そして面白いことに、「意見を言えない」管理職と言うのは、自分が影響力を行使できる相手に対しては、非常に明確に「意見を言います」。自身の体験に基づいた知見や、お上の言うことをそのまま伝えることは、大得意です。

 

4.変えられない

 

結果として、管理職は学校を変えることができません。任期中は大過なく過ごすことが最優先ですから、これも当然と言えば当然のことです。

 

 

もし、誰も管理職になろうとしなかったら?

 

さて、こんな風に見ていくと、一般教師が管理職というものに対して魅力を感じる可能性は極めて低いと言えます。では、誰も管理職試験を受けないことになったら、どうなってしまうでしょうか?

 

1.誰も困らない

 

答え。誰も困りません。ただ、管理職にマネージメントを求めている教師は別かもしれません。何か困ったことがあれば、上級職の立場にある人に泣きつく。そのやり方をずっと続けるのであれば、構いません。

 

しかし、あなたを含めた多くの教師は、トラブルに対しては自らの力で解決に向けて努力したいと考えているはずです。教師自身がそのようなスタンスであるからこそ、成長のプロセスを辿り続けることができるわけですし、生徒の相談にも応えることができるわけです

 

 

2.教師それぞれが大人になる

 

教頭がいなければ、つまりマネジメントする役割がいなければ、個々の教師がしっかりすればいいだけの話です。自身の予定を管理し、締め切りを守り、対人関係構築のためのスキルを学び、論理と共感で提案を通し、トラブルを回避し、トラブル発生後は真摯に状況改善に向けて仕事を積み重ねていく、それだけです。当たり前のことを当たり前にやろうというわけです。

 

一般的に教師という人種は、民間におけるビジネスマンの持つ要素の多くを持ち合わせていません。大卒ですぐに「先生」と呼ばれ、自分よりも常に目下の人間を相手に、しかも「教育」の名のもとに多くの働きかけが「指導」の名目で無条件に適用できるのですから、一般的な社会人のようには振舞えないのです。私も、この点に関しては自己批判的な姿勢を崩さずにいます。この点を意識したうえで仕事に取り組むだけで、教師としての「成功」はぐっと近づくことになります。

 

だから、個々の教師は、従来の教頭が私たちに対してしてくれたことを、つまり教頭職の業務を、自分自身で引き受ける必要があるのです

 

・学校の「窓口」として振舞い、判断し、行動する。
・セルフマネジメントを実行する。
・日々の業務の中から、「通過儀礼的要素」を見出す。

「この仕事をきっちりやり切った後、自分はどうなれるんだろう?」

「この仕事は、私をどんなステージに上げてくれるんだろう?」

 

あなたがこんな風に考えながら目の前の仕事に取り組むことで、今までは見えなかった「景色」が見えてきます。毎日繰り返せば、実務能力の向上にとどまらず、メンタル面で飛躍的な進歩が叶うでしょう。

 

 

 

管理職撤廃の道へ

 

最後に、「管理職撤廃」への道を探ろうと思います。

別に、「管理職はいなくてもいい」と思っているわけではありません。管理職が行ってきた従来の仕事を根本的に見直し、どうしたら学校が良くなるか、ひいては現場の教師や生徒たちが幸せになれるかという視点で考えてみました

 

1.教頭職を経ずに校長へ

まず、学校長になるためには教頭職という「通過儀礼」を踏む必要はありません。学校業務の大変さや組織図というものを知悉することが管理職に求められることであり、その先鋒を行く教頭職の経験は不可欠だ、といった考え方はもはや不要です。

 

学校長に求められる最も大切な視点は、

学校の理念を定め、職員と共有し、結果を出すこと

にあります。

 

本校の位置づけ、未来の変化、必要な人材像、そして理想。

 

重要な要素を列挙し、優先順位をつけ、ビジョンを打ち出し、そのビジョンを実現するための具体案を挙げる。どのプランが何年で達成できるかを検討し、その可能性を職員と話し、取捨選択していく。あとは、実務を職員に委託しながら、自らはビジョンを示し続ける。

 

学校長の仕事がこういったものであれば、教頭職を経験する必要はありません。その代わり、学校長には理念を示し、旗振りを継続し、皆を鼓舞する力が求められます

 

 

2.教頭の仕事を専任事務職員へ

教頭が従来行っていた「窓口業務」「マネジメント」「通過儀礼」のうち、「通過儀礼」はすでに必要がなくなりました。教頭職が、「校長になるためのステップ」としての意味を持たなくなれば、誰もがその実力をいかんなく発揮できるポジションになり得るはずです。

 

教頭は、「窓口業務」と「マネジメント」に専念することになります。さらに言えば、教師たちの「マネジメント」自体も不要です。教師たちが自立し、自身にかかわることをきっちりとこなしていけば、教頭によるマネジメントは必要がなくなります。教師たちは、プライドにかけてそこは譲ってはいけません。今までのような甘えを捨て、セルフマネジメントを徹底するのです

 

こうすることのメリットははかり知れません。

 

まず、民間の社会人並みの管理能力が養われます。
次に、時間管理のスキルが身につくようになります。
最後に、自助努力の継続は、セカンドキャリア構築の準備につながります。

 

私は、教師がセルフマネジメントを行うことは十分可能だと思っていますし、そうすることで人間性が磨かれたり、個々の能力が開花し、ひいてはセカンドキャリア構築の土台作りになると本気で考えています。

 

しかし、それができないというのであれば、代替案は

事務専任職員の配置

です。

 

行政が予算をつけて、各校に1人、教頭が行っていた従来のマネジメント業務に専任であたってもらうというものです。

 

あくまで、そこに勤務する教師たちの事務処理管理レベルの業務に限定するわけですから、なんら問題はありません。どの教員がどんな種類の事務処理案件を抱え、それぞれの締め切りがいつなのかを把握し、遂行を促し、せっつくだけです。

 

各教師にとっては、生徒がらみの案件が最重要課題になります。よって、それ以外のセルフマネジメントにかかわる部分は、必然的に疎かになってしまいます。だからこそ、事務専任職員の配置が必要になってくるわけです。

 

 

さて、教頭にとって残った仕事は「窓口業務」だけになりました。

 

教頭にとっての「窓口業務」とは、「外の風を学校内部に入れること」です。

 

単に「窓口業務」というと、「依頼などの取次」や「照会対応」「苦情処理」に終始しそうですが、外部から舞い込む連絡の対応は、窓口業務全体の2割程度にとどめていただきます。

 

では、残る8割は何か?

 

それは、「外の世界に開く」ことです。

 

管理職の最大の仕事は、現場を活性化させることにある、と私は考えます。

具体的には、教師や生徒の力を最大限に発揮させるサポートをすることです。

 

たとえば、省コストで効果性の高いシステムあるいは設備などを、他の職員のニーズに応える形で、あるいは職員のニーズに先駆けて現場に取り入れるといったことを、教頭が行うのです

 

管理職の価値は、「先見性」にあると言えます。将来を見越し、

 

「どうしたらラクに、速く、効果的に仕事が進むのか」

「職員に充実感を持たせるにはどうあるべきか」

「生徒の力を伸ばすにはどんな仕掛けが必要か」

「保護者ともっと仲良くなるには、どんなアプローチが考えられるか」

 

などについて、常にアイディアを出し、アイディアを募り、それらを躊躇なく実行する姿勢が求められます。

 

つまり、教頭の最大の仕事は、

「学校の中と外をつなぐこと」

です。意図的に校内に風を流し込み、常に刺激を与え、微調整を続けるための環境づくりが教頭の仕事なのです

 

しかし残念なことに、多くの教頭は仕事を抱え込み、外部からの情報を少数で共有するにとどめ、一方で内部情報は覆い隠し、新陳代謝を好みません。こういった傾向を変えるには、学校や教師全体が根本的な意識改革を図らなくてはなりませんが、近い将来、必ず直面する問題になるはずです。

 

 

3.教頭は授業をしてはいけない

驚きですが、これだけ忙しい教頭は、授業まで担当することがあります。

人件費が抑えられる中、教師たちは各自が担当できる最大限の授業時数を抱えています。それでもなお一般教員が担当しきれなかったり、オーバーした分を担当してくれる講師が確保できなかったりする場合は、教頭が授業を担当することになります。

 

だいたい週に2時間程度ですが、私から見れば、大変大きな負担に思われます。

 

管理職は、一般教員が考えないことを考えるから、管理職と言えるわけです。ですから、管理職は授業をしてはいけません。日本は教育費をケチる国として知られていますが、必要な金銭や講師をしっかり確保したうえで、管理職をその仕事に専念してもらう環境を作るべきでしょう。

 

 

管理職の存在意義は、「理念遵守の姿勢」と「自由度の最大化」

 

かなり長々と話してきたので、結論を述べます。

 

管理職の存在意義とは、下記の2点です。

 

  • 理念遵守の姿勢を常に打ち出すこと。
  • 教師および生徒の自由度を最大化すること。

 

まず、「理念遵守」についてです。

 

管理職は、その学校の目標が何であり、どこに向かうことが求められているのかについて、高い見識と情熱を基に決定し、常に教師や生徒に伝え続けることが求められます。

 

この仕事も最も大切な点は、

下位概念が上位概念を上回ることがないように、常に監視し続けること

にあります。

 

たとえば、

「生徒の自主性を最大限に引き出し、自らの力で未来を切り拓いていける人間を育てる」

といった理念が最上位にあるのに、

「校則は絶対に守らせる必要がある」

ことから、校則違反があった場合は厳密に取り締まる、などというのは、本末転倒な話になります。

 

「生徒の自主性を育成する」ことが最上位概念ならば、校則は撤廃です。それが乱暴なら、学校側と生徒側で何度でも話し合い、より良い方向性である「第3の案」を見つけ出す営みが必要になります。そうすることで初めて、生徒の自主性が尊重されたことになるからです。

 

忙しい毎日を送る中で、学校という組織は頻繁に、何らかの「決定」を求められます。それは主に、生徒の言動に対してどう反応するかといった「対応の在り方」が求められているわけですが、決定へのプロセスはどうしても慢性化する傾向にあります。教師たちはあまり深く考えることなく、「この問題にはこう対処しよう」といった判断を、ほぼ自動的に行ってしまいます。

 

しかし、こういった傾向は危険です。特に私が問題視するのが、

上位概念と下位概念の転倒

です。これが頻繁に起こり始めると、まず「決定」の一貫性が揺らぎ始めます。一つ一つの決定が、情緒に流されたり、長期的な視点を欠いたものに成り下がったりしてしまいます

 

そして同時に、「決定」へのプロセス自体が形骸化します。「教育」にかかわる問題への対処は、「決定された事柄」よりも、「決定に至るプロセス」がより重視されなければなりません。ある問題への解決に向けて知恵を集め、多くの視点から検討を重ねるからこそ、「最善の対応は何か」が見えてくるものです。

 

しかし、「上位概念と下位概念の転倒」とはすでに「決定」がさしたる深い考えもない状態で行われること自体を意味しているため、必然的にプロセスは雲散霧消してしまいます。

 

学校が、何かの「決定」を自動的に行うようになってしまったら、それは今まで以上に教師たちの思考停止状態が強化されることを意味します。それはまずいことです。

 

生徒を育てようと思うのならば、

「何が最も大切なのか」

「最優先事項とは何なのか」

について、間違えないように監視を怠らない。

 

それが、管理職の大きな仕事です。

 

 

 

次に、「教師と生徒の自由度を最大化すること」です。

 

先に述べたように、管理職の仕事は、上位概念と下位概念のはき違えが起こらないように、常に配慮をすることにあります。

 

これは、直接生徒と向き合っている一般教師にはなかなか持ちにくい視点です。多様な価値観を持ち、気持ちの波が時に激しい生身の人間を相手にしているわけですから、必然的に、その決定は表面的あるいは短絡的なものになってしまいます。

 

たとえば朝のSHRが終わった後、数人の生徒が供託の周りに集まって、各自が好き好きに自身のニーズを担任に伝える光景をイメージしてみてください。担任教師は1限が始まる時間を気にしながら、各生徒のニーズに応えなくてはなりません。結果として、いい加減な対応で済ませてしまうこともあるでしょう。

 

あるいは、過去の勤務校での経験をもとに、「こういう場合はこうだった」と、前例に照らし合わせて判断を下すことも、よくあります。実際、私も多くの同僚が同様な説明をすることに違和感を覚えたことがあります。ある決定や対応の根拠を尋ねた際に、

 

「前任校ではこうだったから」

 

という返事が返ってきたことは、枚挙にいとまがありません。教師自身も、なぜそのような決定を下すことになったのか深く考えることはなく、ほぼ自動的に反応しているにすぎないのです。

 

 

私は、このような「教師の自動化」が進んだ理由は、「学校」や「教師」というものに内在する「宿命」に負うところが大きいと考えます。

 

その「宿命」とは、

・利益を追求しない点。

・常に「子ども」を相手にしている点。

です。

 

詳細はここでは触れませんが、

利益を追求する必要がなく、相手にしているのが「子ども」であるとの意識が消えない学校という場、そしてそこで働く教師には、

相手への尊重

細心の注意

効果性の追求

などを考える傾向が極めて希薄である、ということです。

 

教師は、この「宿命」を意識しながら、それを「宿命」としてではなく、自ら改善可能な、コントロールできる対象として打破していかなければなりません。

 

一般教員が個々の力をつけ、育っていくまでは、管理職が先導する必要があります。つまり、管理職自身が「自動化」の危険性を十分に認識したうえで、それを食い止めるために、個々の教師に「最大限の自由」を与えることです

 

管理職には些末な点にこだわることなく、目標達成までのプロセスは個々の教師に任せ、遠くに見えるゴールへの道筋を見失わないように先導することが求められます。

 

つまり、これは

「学校が学校でなくなること」

を意味しています。

 

従来の学校像や教師像を捨て、本質を見据えた深い視点に基づき、同時に誰もがメリットを享受できるような、いわゆるwin-winの関係を相互で構築できるようになることです。

 

従来の学校は、その役割を果たし終えました。これからは、もっと「個」に焦点化した働きかけが求められます。しかも、可能な限り束縛をなくした、それでいて誰もが楽しさを感じるような場になること。

 

そのために、まずは「管理職がいなくなったらどうするか」について、考えましょう。

 

その場合、新しく管理職になるのは、あなた自身です。あなたがセルフマネジメントを徹底し、魅力的な社会人になってください

 

そして、役職としての管理職の方々には、従来とは異なる領域で、学校のかじ取りをしてもらいます。

 

それは

「理念を高らかに謳いあげること」

であり、

「外の風をどんどん入れること」

であり、

「自由度を最大化すること」

です。

 

もし学校がそんな風に変わっていったら、多くの教師が管理職を目指そうとするでしょう。

 

 

「誰も管理職を目指そうとしない?」

 

 

とんでもない。

こんなに魅力的な仕事を、やらない手はありません。

 

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