22 教師が職責を全うすれば不祥事がなくなるって? ・・・バカ言ってんじゃない。

仕事で成功する

教師の不祥事って、枚挙にいとまがないですよね。
さまざまなニュースアプリを通じて、毎日のように「こんな教師がいます!」というお知らせを目にします。

不祥事防止策は、終わっている

先日、ある都道府県教委が緊急の校長会を開催しました。

報道によれば、
「学校長は自らの職責を自覚し、1人1人の教師の心に沁みこむ指導を行う」
ことが求められたということです。

具体的には、次の3項目が挙げられていました。

①校長自らが襟を正す。
(「襟を正す」って、抽象的で、何に取り組むのかわかりませんよね。)

②再発防止に向けた研修・会議を行う。
(今までにも何度となく研修が行われたはずですが、実効性がなかったから現在に至っているんでしょう。)

③行動計画の見直し。
(意識啓発や罰則規定を盛り込むなどの表面的な取り組みでは、本質的な問題解決にはなりません。)

ひとことで言うと、不祥事防止の徹底を図る、ということなんですが、皆さんはどう思いますか?

私は「もうダメだな」という思いを強く感じました。上記のような対策は、百害あって一利なしです。理由は次の5点です。

1.ルールを強化しても人は変わらない。
2.
そもそも不祥事は一個人の問題。
3.1度できたルールは、終われない。
4.再発防止の各種対応策は、アリバイ作りに終わる。
5.人間はミスをする生き物。

教師の不祥事にスポットが当たった場合、都道府県教委が行うことは、学校長による綱紀粛正をうたった注意喚起文書の読み上げと配布です。多くの事例を示し、共有し、「皆さん、襟を正しましょう」で終わりです。

しかし一般的な教師は、そのような事例を示されたところで、何とも思いません。単純な問題で、不祥事案件は、自身の思考や行動パターンとかけ離れていて、自分事とは感じられないからです。誰もが「私には関係のないこと」と切り捨てるのが普通です。

たとえば、生徒の個人情報が入った外部メモリーを紛失する、などといった問題がよく聞かれますが、その話を聞いて「私もなくすかも」とか「学校外に持ち出さないようにしよう」と思う教師はほとんどいないはずです。授業プリントやテスト問題の作成、あるいはテストの得点入力をするために外部メモリーを持ち帰ることは、多くの教師にとっては日常的に行うことです。仮にそうしなくても、この程度の軽いファイルなら、メールの添付ファイルとして職場のPCから自宅に何本も送れます。さすがに個人情報レベルのものは私もメール添付はせず、外部メモリーに入れますが、いずれにせよ、それで何かあったら腹をくくるつもりでいます。

勤務時間中にすべての仕事が終わるなら話は別ですが、誰もがある程度のリスクを抱えて仕事をこなしているわけです。これでなお、すべての仕事を校内で完結させるようにと言われたら、仕事の見直しを図る方向で話を進めるのが普通でしょう。たとえば、ほぼ意味のない形式的な仕事を列挙し、それらを行わずに済むような方法を提案します。

「そのレベルのミスはしない」。この大前提が一部の教師の不祥事によって問題にされるなら、そちらの方が問題です。保守の牙城である学校という組織は、とにかく危ない橋を渡ろうとしません。もちろん、こちらも進んで渡るつもりはありませんが、仕事を円滑に進めるために何が合理的なのかについては、考えます。

私は自分がミスをするかどうかについて、過大評価も過小評価もしていません。ただ、可能性と危険性を天秤にかけて、その都度判断しているだけです。仮に個人情報を勤務時間外に扱わざるを得ない時、翌日以降に回せないのであれば、私は自宅で作業を続けます。その程度のリスクを取らずに仕事を進めようとすることは、「仕事」とは言えないのです。一教師が日常的にこのようなリスクを取って仕事をしている一方で、統括する側が、「問題が起きたから厳しくしよう」という程度の発想しか浮かばないことの方が、根深い問題なのです。

さらに、表面的な対応策は「アリバイ作り」でしかありません。

「きちんとやってます。でも残念なことに、あってはならないミスが起こってしまいました。他の者が続かないように注意喚起します」。

教育現場では、こんな声明発表の繰り返しが行われるばかりです。しばらくして、また誰かが同様の事件を起こしますが、やはりアリバイ作りをして終わりです。

そして一度できたチェックシステムは、長らく生き続けます。問題を未然に防ぐための手続きは、往々にして煩瑣で、本質を捉えておらず、教師のやる気を奪うものです。多くの教師たちが誇りをもって仕事に臨みたいと考えている中で、「あなたもするかもね」的な注意喚起や研修が永遠に続く。気持ちが萎えてきませんか?

もちろん、都道府県教委としても、問題が起こったのに何もしないわけにはいかないのでしょう。問題をきちんと受け止め、現場に働きかけ、未然防止を図る。当然行うべき手続きです。

ただ、現状では「一部の生徒が問題行動を起こしたから、全校集会を行った」といったレベルに留まったままです。多くの生徒は「俺たちちゃんとやってんだけど」という不満を胸にくすぶらせ、日々が過ぎていく。生徒との信頼関係の構築に水を差す働きかけと言えるでしょう。

結論。従来のような不祥事防止対策は、無効です。

では、どう考えればいいでしょうか。そもそも教師の不祥事は何が原因だと思いますか?

私は、
「教師の仕事そのものが不祥事を生みやすい性質を持っている」
と考えています。

「望ましさ」を演出する教師

日々、生徒に向き合っている教師は、「教える」「修正する」意識に強く囚われた存在です。礼の仕方一つ、服の着こなし方ひとつ、鉛筆の持ち方、声の出し方、手の上げ方・・・きりがありません。そもそも、これらの点が気になる時点で非常に底の浅い、表面的な教育にとどまっているわけですが、多くの「真面目な」教師は、生徒の一挙手一投足を決して見逃さず、逐一修正しなければ仕事を果たしていないかのような錯覚に囚われています。

そもそも学校は建前重視で成立している場です。実際の人間の思考や行動の可能性はわきに置いたまま、べき論に基づいて「望ましさ」という幻想を演出しなければいけない。それが学校です。教師は「正しいこと」しか言いません。いえ、言えません。その「正しさ」は、それを伝える教師自身の価値観と一致しておらず、現実社会の在り方からも大きく乖離しています。

さらに、学校そのものが内包している一律主義、多様性に対する不寛容が、生徒だけでなくそれを執行する教師自身を苦しめます。その結果、必然的に針が逆の方向へ振れ始めます。教師であろうと他の職業に就く者であろうと、抑圧が過ぎればバランスを取らずにはいられません。もはや教師は、あまりにも不自然な無理がたたった結果、埒の外に飛び出してしまうわけです。

教師はもうこれ以上「職責を自覚」できない

教師にとって本当に必要なことは、自由を与えることです。アイディアを募り、決裁不要の状態ですぐに実行し、良ければ続け、悪ければ朝令暮改をいとわない。つまらない形式主義にとらわれず、合理性と効果性をひたすら追求し、プロセスを楽しみながらも結果を出すことに専念する。

これはつまり、営利を追求する企業の在り方です。ただし、学校現場のいいところは、結果が個々の教師のサラリーに影響しない点にあります。

では、次の問題。サラリーに影響がない場合、人は仕事に精を出すことができるのか? つまり、アイディアを実践に移そうと思えるのか?

答えは――――――――、

学校を離れれば、できる。

学校の従来の価値観、教師の従来の在り方を捨てましょう。社会はもっとダイナミックに、小さな労力で最大の効果を出すために動いています。より深く人間の本質を見つめたうえでさまざまな交渉が行われています。より普遍性の高いルールに基づき、いい意味でビジネスライクに仕事をする。こうすることで、個々の学校のビジョンも見えてくるし、必然的に優先順位も決まってくるため、何らかの決定を下す際は透明性を保持したまま「きれいに」方向性が決まります。

このようにシフトすることで、教師は、「サラリーを考慮せずに仕事に打ち込める職業」になります。「金銭的価値を超える」というのが未来の方向性であると盛んに言われていますが、その意味において、教師は未来を先取りする職業になると言えるでしょう。

教師はもう、これ以上「職責を自覚」できない。何度「自覚」をしようとも、抑圧の反動は表面化します。私たちは、いい加減目を覚まさなくてはならない。仕事が最高に楽しくなるような、生徒や教師自身の顔が輝くような、そんなアイディアを募り、すぐに実行に移す裁量を与えてください。

教師個人に最大限の裁量を与えること。それは従来の学校のあり方からは遠く、多くの大人たちが眉をひそめ、批判することかもしれません。もしくは躊躇し、自問自答を繰り返し、混乱に陥ることになるかもしれません。

しかし、あなたは間違ってはいません。それが自然な状態であり、多くの人を笑顔にする手段であることに、私たちはすでに気づいています。

私たち教師の「職責」、それは自身を縛ることではなく、
自身を解放することにあるのです。

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