75 世界のすべてがあなたに取って代わる

仕事で成功する

皆さんこんばんは角松利己です!

今回は、「教師としてのあなたの存在意義」を問い直すことがテーマです。

教師でなくても、教師はできるのか?

私はいくつかのビジネス系メールマガジンを購読しています。
購読の理由は、単純に「学校の世界とは全く異なる、自分を磨く視点が得られるから」です。

そのメルマガの一つに、元大阪府立中教諭で現在は教育ビジネスをされている原田 隆史(はらだ たかし)氏のものがあります。ある日のメルマガに、こんな問いかけがありました。

「教師という職は、代替可能ではないですか?」

正確には、このような表現ではなかったと思いますが、趣旨はズレてはいません。

「教師の専門性とは、どの程度のものだろうか。教師の専門性は、一般社会の各分野における有識者や実績、技術を持つ人たちによって代替可能ではないだろうか。

実は原田氏のこの問いかけは、私が35歳の時に大学院へ内地留学した時の動機づけとつながるものだったのです。

その当時の私の疑問は、

「教師とは、ゼネラリストであるべきか、それともスペシャリストであるべきか。」

というものでした。

どうしてもスペシャリティが欲しかった。

当時の私は教員になってちょうど10年目にあたる頃でした。初任校では生徒との関係作りに苦しみ、当時在籍していた2校目の勤務先でも、多様な生徒の心をつかみきれない自身にもどかしさを感じていたため、大学院に行って心理学を学びたいという意欲に駆られていました。

私は、いわゆる「偏差値の高い大学」の出身ではありません。加えて、運動部経験も中学生までであり、高校から先は何もしていません。大学入学にあたり一浪し、教員採用試験は3度目で合格した人間です。

私はどちらかと言えば、自身の学歴に引け目を感じるようなタイプではありません。ただ、実際に教師になってからは、「学歴」よりも「自身の経験のなさ」を呪いました。学習指導上でも部活動指導上でも、生徒の目を輝かせるような指導がまったくできないことを思い知らされたからです。

仮に「もの」になっていなくても、少なくとも経験だけでもあれば多少の自信にはつながったと思いますが、その経験すらなかった。私が内地留学を希望したのは、きっと私に「教師としてのスペシャリティが欲しい」いう気持ちが強かったためだと思います。

先の原田氏の問いかけは、誤解のないように解釈すれば、「教師は専門家たるにふさわしい学びを不断に続ける限り、教師である。」ということです。しかし、私は教科指導においておそらく塾の先生を超えることはできないでしょう。

一般的に考えても、その道の専門家が教えた方が、生徒のスキル向上に繋がったり、その領域に関する興味関心を深めたりすることにつながると思っています。

つまり、教師の仕事は外部専門家による代替が可能であり、生徒にとっての収穫も大きいのです。教師の代わりは、限りなく存在します。

では、もし教師がスペシャリストになれないのだとしたら、それ以外の道を探るしか方法はないのでしょうか? つまり、教師は生徒のマネジメントをバランスよく行う人間、いわゆる「ゼネラリスト」を志向するべきなんでしょうか?

私の答えは、「スペシャリティを備えたゼネラリストたるべし」です。

まず同伴者。次にコーディネーター。

現代日本において、教師の果たしうる役割として最も大きいものは、「生徒の同伴者」としての役割です。

多様な家庭環境と能力、それを受容する社会のあり方。そして「唯一の絶対解」のない時代。こういった条件が導くものは、「同伴者としての教師」以外にはありません。もう少し進化すると、「生徒と社会をダイレクトにつなぐコーディネーターとしての教師」くらいになりますが、このレベルに至るには、学校と現実社会が今まで以上に密接に関わり合いを持つしかないのです。教師は基本的に、社会を知りません。

現代の教師が引き受けるべきは、子どもの成長を見届けるという役割です。何かを教えるというよりも、一緒に悩むことが大切です。

そして子どもの成長を多方面から捉え、支えるには、「ゼネラリスト」としての能力が求められます。学習指導、部活動指導、分掌業務、心理的サポート、社会状況の把握、未来への視点などの多方面から生徒の日々を支えるわけです。特定の領域に突出する必要はありません。「特定の領域」は、「学校外の誰か」がさまざまな形でサポートしてくれるからです。

ただし、では多くの教師が「ゼネラリスト」としての位置づけで満足できるのかといえば、私は「できない」と答えます。誰しも、何かしらの得意分野があった方が生き生きとするのと同様に、教師にもスペシャリティが必要なのです。

仕事に関係のないスペシャリティを持て。

私の提案は、「スペシャリティを持つのであれば、教師の仕事以外の領域にしてはどうですか?」ということです。たとえば現在の私は、国語を教え、進路指導部に所属し、武道系の部活動顧問を務めていますが、そういった領域に精通することを目指すのではなく、一般社会で通用するスキルを持とうということです。

私が必要とするスペシャリティとは、国語の専門性を磨くことでもなく、進路指導のエキスパートになることでもなく、52歳にして新たに武道に目覚めることでもありません。そうではなく、「一般社会で通用する、いえ、むしろ高い価値が置かれる領域のスペシャリティを身につけること」です。その結果として、このような文章を書き、投稿し、さまざまな仕組化を図ろうとしているわけです。

そして、このような試みが生徒にとっても大きな価値をもたらすものになることを、私は確信しています。私の仕事は、生徒と社会をつなぐことです。生徒を社会に適合させることではありません。多様な生徒を多様な価値観が混在する社会に送り出すわけですから、私たち教師が学校の価値観に染まるわけにはいかないのです。

学校の価値観に縛られない教師が、学校で教師をやる。

この矛盾した試みにこそ、価値があります。これからの教師はこの方向で動かないと、淘汰されます。

「あなたの代わりはいますか?」

・・・・・・あなたの代わりは、すべての人間です。年齢や職種にかかわらず、あなたの代わりはどこにでも存在しています。才能の有無ではなく、自分が本当にやりたいことに特化した多くの人たち、直接的な利益を生み出す多くの人たちが活躍する時代に私たちは生きているのです。それどころか、人間以外のものが、すでに教師の役割を担っている時代に、私たちは生きています。

誰もが、あなたの代わりになる。

ならば、あなたはこれから、どうしますか?

あなたの存在意義は、どこに?

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