志とスキルがあれば、教育は可能 3

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皆さんこんばんは角松利己です!

 

今回も引き続き、「学校に変化を求めている人たち」の試みにフォーカスして記事を書きます。

 

一連の記事はこちら。

志とスキルがあれば、教育は可能 1

志とスキルがあれば、教育は可能 2

 

 

「困った存在」は「宝の山」

(不登校児のBBS=“ネット上の掲示板“を見て)彼らがBBS上で、世の中の社会問題について非常に高いレベルの議論を闘わせている姿を見て、衝撃を受けました。「彼らは通学はできていないけれど、就学はできている」と。こんなに優秀な子どもたちが学校に行けず、落伍者のレッテルを貼られているのは、社会的にも大きな損失ではないか。その時から、教育に強い関心を持つようになりました。

 

日本の学校の多くは、発達障害の子どもを“困った存在”だと思っている私は“宝の山”と考えています。私の知る範囲でも、革新的な起業家には発達障害やその傾向がある人が多い。

 

日本の学校が、多様化する生徒のニーズに対応し、イノベーティブな人材を輩出していくためには、外部の様々な専門機関と連携すること。なぜなら、学校は「学習ニーズ」だけでなく、「福祉ニーズ」「医療ニーズ」にも応えなければならないため。もう一つは、学校が生徒にとって安心安全基地となること

 

そのために教師に必要なのは、「上から目線」の指導力ではない。生徒を理解・承認・傾聴することです

 

明蓬館高校長 兼 SNEC総合センター長 日野公三さん

「Career Guidance」432号(2020年5月)掲載

 

 

システム最適化を目指す学校

日野さんのコメントから導き出される見解は、こうです。

 

 ▼学校という場に適応していないだけで、専門知識に特化し十分議論できている生徒たちをどのように社会参画させるのかが日本の学校教育の課題。

 

▼日本の学校教育は、生徒の突出した力を伸長させる方向には働かない。「システムに適応できているかどうか」を最優先にしている。

 

▼未来社会はVUCA(変動性・不確実性・複雑性・曖昧性)の時代と言われるほど混沌としており、従来的価値観や手法では対応しきれないことは周知の事実であるのに、そのような現実を見ようとしない各種政策が依然として行われている。

 

▼学校は、すでに「学習ニーズ」を満たすだけの場ではなくなっていることが再認識された。生徒の生活や人生そのものを長期的視点から捉えたうえで、総合的にサポートすることが学校や教師に求められている。

 

▼教師は「指導者」ではなく、「同伴者」たるべきだ。

 

 

学校は「学ぶ」意義を説明できない

発達障害を抱える児童生徒たちが教えてくれたことは、「すべてができる必要はない」ということです。

 

たとえば難関国立大学に合格するためには、多岐にわたる科目すべてについて高得点を目指さなければならないという「常識」がありますが、そのハードルは非常に高い。私の疑問は、「その先に何があるのか?」です。学識が豊かで教養のある人たちは、物事を多面的な視点から捉え、柔軟な発想に基づき、新たな局面を切り開いてくれるだろうというのが、私の理解です。「あれだけたくさんのことを知っているからには、どんなに困難な局面も打開してくれるに違いない」とか、「最大多数の最大幸福のために、チャレンジを促すはずだ」ということです。これは、多くを深く学んだ人たちに対する偏見であるかもしれませんが、同時に、私を含めた多くの人々にとっての希望であり、敬意でもあるわけです。

 

しかし、現実はどうかといえば、必ずしもそうではないようです。では、「高学歴」とは何なのか? それは高学歴保持者にとっては「安定」であり「プライドを維持する装置」として働き、そうでない人たちにとっては「ルサンチマン(やっかみの対象)」にほかなりません。

 

広く深い学び(もちろんそれは大学入試に至るまでのレベルに過ぎませんが)がもたらすものが、「よりよい社会の構築」につながるのでなければ、多くの人たちは(少なくとも大学受験レベルの)学びをやめるでしょう。「私一人の人生がうまくいっていなくても、社会全体が良い方向に動いていっている」という実感が持てるなら、その人はおそらくある程度の我慢ができるはずです。なぜなら、その人は希望を感じているはずだし、全体利益に適っていると信じることができるからです。

 

しかし、もしそうなっていないとしたら、私たちは学びをやめるでしょう。「学び」は、何ももたらさない。私たちが「学び」の持つ可能性を信じられなくなるからです。

 

 

広くて深い「学び」はいらない。

その人その人に合った「学び」があるはずです。多様な人の集合体として社会が成立していることからもわかる通り、私達がどんな課題を突きつけられたとしても、「個の学び」がその時々の課題に応じて参集し、対策を練れば一定の結果が出るのではないでしょうか。

 

「誰一人切り捨てない」という言葉は時として空疎に響くかもしれませんが、自分自身や近しい人々が社会的弱者としての立場に置かれたと想定するならば、「私のことを、この人のことを切り捨てていいんだ」とは言えないはずです。この辺りは「想像力」や「自分だけが例外であるはずがない」といった、すべての人にある程度備わっていてほしい考え方が前提にあるわけですが、いずれにせよ多様な人々の多様な「学び」が相補的な関係性を築きながら社会貢献を果たしていくことは望ましいことであり、また自然なことでもあると思うわけです。

 

そのうえで、学校教育が果たす役割といえば、「児童生徒の人生を長期的視点で捉え、特定のニーズに偏らない、総合的なサポートを行うことが求められている」ということになるでしょう。

 

学校教育は、「学習ニーズ偏重」を手放すべきです。従来の学校で行ってきた「お勉強」は、多様な「学び」のごく一部であり、特異な価値観や方向性をもたらすものです。つまり、必ず「漏れ」が出てくる。「漏れ」が出てくれば、偏見や差別感情が、さらにそれらを支えるようなシステムが社会に生まれることになります。

 

でも、とりわけVUCAの時代は(本当はいつの時代もそうあるべきなんでしょうが)、「多様な能力を持つ人たちが、予測不能な課題に応じて結集し、解決に導き、再び日常に戻っていく」といった展開がなされるべきでしょう。その方が合理的な対処法と言えますし、きわめて自然な流れでもあると考えられます。

 

そういった社会を作るために、学校がすべてを背負う必要はありません。日野さんをはじめ多くの人が言うように、私たちは「民間組織と常に連携しながら児童生徒と同伴する学校・教師」を当面は目指していくことになりそうです。

 

まずは「学習ニーズ偏重」をやめる。たとえば、「履修」させるが「評価」はしない、という方法です。学校教育における従来の「学び」は、少なくとも義務教育レベルでは放棄できないでしょう。それなりに意味があるから、今日に至るまで生き延びてきたはずです。でも、「評価」は必要ないと思います。各担当者は「それがいかに楽しく、好奇心を呼び覚ます領域であるか」ということにフォーカスした授業を展開すれば十分だと考えます。

 

従来の「評価」は、児童生徒に言うことを聞かせるために存在している印象が、きわめて強いと感じます。わからなくても、よく理解できていなくても進級・進学させればいい。大学も個々が特化して学生を呼べばいいでしょう。欧米の大学のように、一定以上の学力が保証された時点で学生たちに行きたい大学を選ばせ、定員オーバーしたらくじ引きで入学生を決めればいいと思います。定員オーバーの時に選抜試験を行えば、結局、「お勉強偏重」の風潮は変わりません。「くじ」のような不確定要素で人生の方向性が決まることもある。そういった「当たり前」のことだって、私たちは知る必要があるんです。

 

定員を満たさなかった大学は、職員を他大学に回せばいいでしょう。その場合、「箱」が空き家状態で残ってしまいますが、最少人数で最低限の管理をすることで乗り切れます。しかし、「空き家大学」を作らないもっといい方法がある。たとえばMOOC(ネット上で誰もが受講できる大規模かつ開かれた講義)に代表されるような「箱」を持たないオンライン大学がもっと出てきていいと思います。教育サービスを提供する側にとっても享受する側にとっても、従来と比較して圧倒的にコストがかかりません。「学位の担保の仕方」など、心配する必要はありません。「学位」とは「権威」です。そうではなく、「そこで何を学んだのか、学んだ結果、何ができるようになったのか」、それがすべてです。そういうコンセンサスを得ることが重要です。

 

 

多くの人が幸せになる(と勝手に思っている)学校教育の流れ

まとめると、こんな感じになります。

 

理想的な流れ

 ・高校までを義務教育とする。

・義務教育における履修内容は、従来科目+αで構わない。

・学校・教師は「学習ニーズ偏重」をやめる。できれば、「自由な学籍移動」を認める。

・義務教育レベルでは「履修」にとどめ、「評価」はしない。

・教師は、「楽しさと好奇心の刺激」にフォーカスした授業を行う。

・教師は多様な職業観を学校生活全体を通じて生徒に提供する。

・大学進学は、SAT(アメリカで実施されている大学入学適性試験)のような試験を受けて、一定レベル以上の学力が認められればどこの大学に進学しても構わない。定員オーバーしたらくじ引き(という名の不確定要素)を組み込む。

 

こういった流れで、20代前半くらいまで過ごし、残りの人生はその時々の興味や関心、必要性に見合った「学び」を身につける。こういった営みを、残る50年続けるわけです。私たちは「100年人生」を豊かに過ごすために、その時々の局面に対応しながら、寄り道を何度も繰り返し、学び続けるんです。老いて体力が落ちたら、その状態でやれる(やりたい)ことをやればいい。20年従事した仕事がやっぱり向いていなかったと思えば、その場ですぐにシフトチェンジすればいいんです。私はそれが多くの人にとって「幸せな(楽しくて社会に貢献できる)」人生だと思っています。

 

「教師は、従来の学校教育に適応してきたから、教師になった。」

どんな職業についても言えることですが、自分を育んできた価値観やシステムに適応し、それが自分に合っていると思ったからこそ教師になった、というケースがほとんどではないでしょうか。

 

しかし、いま求められているのは、「従来の価値観を手放すこと」なんです。その価値観に固執することは時代のニーズに合っていないし、多くの人を「幸せ」にしないと思うからです。多くの生徒達に、つまり生徒の数だけ存在する多様な価値観に触れることが避けられない「教師」という職業だからこそ、単に「学習ニーズ」や「従来社会ニーズ」に合わせることに疑問を感じるはずです。多くの選択肢を示し、生徒に自由な発想を許し、自身の専門性を評価に関係なく楽しさとともに伝え、あとは任せる。生徒に任せればいい。

 

まずは、教師であるあなたが「自由」になることです。偏見や先入観を捨て、どうしたら多くの人が幸せになれるのか、考えてみるといいでしょう。

 

 

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